禁じられた森に入るのは初めてだった。 どんな生物がいるのか、噂では聞いたことがあるけれど、 足を踏み入れようと思ったことは一度もなかった。 薄暗い森の中は、月明かりに照らされ、辛うじて先が見えた。 光を灯すことが許されない状況で、は足音もなるべく立てぬよう、 透明マントをかぶり、ロンから借りた杖をきつく握り締め、行くあてもない森の中を進んだ。 ザワザワと木々のざわめきや、虫の鳴き声も聞こえる。 森の生物たちは寝静まっているのだろうか、静寂があたりをつつんでいた。 あまりにも、現実離れした出来事の連続で、今こうしている自分が不思議にさえ思える。 ルーピンは、今頃どうしているのだろうと思うと、は焦る気持ちを抑えられなかった。 第38話 涙 はその夜、幸運なことに、危険なものに出会うことがなかった。 時折茂みが揺れる音や、何頭かのケンタウロスの蹄の音を聞いたが、 幸い透明マントのおかげで、相手にも気付かれなかったようだった。 凹凸のある足場を歩き続けていたため、さすがに両足が疲れていた。 ルーピンを早く見つけたいのに見つけられなくて、気持ちは焦るばかりだった。 夜も更け、どれぐらい時間が経ったか分からないが、いつの間にか空気も冷え込んでいた。 夜明けが近い気がした。 それからまたしばらく歩き続けていると、前方から、低い唸り声が聞こえた。 は息を呑んだ。 森の少し開けた場所に、狼人間が月明かりに照らされ、崩れるように座り込んでいた。 首から背中にかけて深い傷を負い、苦しそうに呻いている。 よく見れば、体のあちこちからも血が出ていた。 その姿を見たは、先程までの恐怖が、何か別の感情に変わっていくような気がした。 『リーマス』 どうしたらよいのか、は分からなかった。 近づいて傷を癒すことも難しい。このまま人の姿になるまで待って、手遅れになってもだめだ。 『一度、失神呪文をかければ…』 木々の合間から彼を見つめて、はぎゅっと杖を握った。 マントをかぶったままの状態で、できるだけ呪文をはずさないように、は近づこうとした。 彼女が足を踏み出したその時、踏まれた木の枝が、パキッと小さな音を立てた。 ぴくっと狼人間が反応を示し、首を上げ音の鳴ったほうを見た。 はその視線と自分のがぶつかったように思えて、ぞくりとした。 こうなっては身動きがとれない。 それなのに、狼人間は弱っていたのが嘘だったかのように、すくりと後ろ足で立ち上がり、 透明マントをかぶったのほうへ、近づいてきた。 目が爛々と光っている。獲物の匂いを嗅ぎ付けたようだった。 は全身が、氷のように冷たくなるのを感じた。 「ステューピファイ!」 マントを瞬時に取り払い、が呪文を放ったと同時に、狼人間が彼女に向かって爪を伸ばした。 バンッと音を立てて呪文が木々にぶつかった。 「…っ」 の左腕に、激痛が走った。どさっと地面に倒れこみ、その反動で右手に持っていた杖が転がった。 呪文が交わされ、左腕を切り裂かれてどくどくと血が溢れ出した。 が目を開けると、目前には狂喜に満ちた獣の目があった。 彼女に覆いかぶさった狼人間は、今にも彼女の喉元に噛み付きそうだった。牙をガチガチと鳴らしている。 恐怖のあまり、もうは身動きがとれなかった。ここまでかと思った。 けれど、ふと、もし彼が元の姿に戻って、死んでいる自分の姿を見たら、どうなってしまうだろうと思った。 そうしたらやっと、自分がなんて残酷で、愚かなことをしているのだと分かった。 「リーマス」 涙を溢しながら、優しいルーピンとは似ても似つかない獣の目を見つめて、震える声で彼の名前を読んだ。 途端に、恐ろしいという感情よりも、彼に対して申し訳ないという気持ちと、愛しさで胸がいっぱいになった。 その時、の上に覆いかぶさっていた狼人間の動きが止まった。 まるで時が止まったかのように、彼女の瞳を、その目が見下ろしていた。 は訳が分からず、瞬きをした。それは永遠に続くかのように思えた。 だが次の瞬間、 さあっと、狼人間の顔を光が照らし出した。周囲が一斉に明るくなった。 暗い雰囲気が、冷たい空気が、徐々に晴れ、暖かくなったように感じられた。 夜明けだった。 の上に置かれていた爪がはがされ、狼人間は顔を手で覆いながら立ち上がり後ろへあとずさった。 ウウウ、と低い呻き声をあげて、よろよろと歩き出した。 は硬直した状態で、その姿を見た。 瞬時に毛で覆われていた体が人の皮膚に戻り、鍵爪が見覚えのある大きな手に変わった。 まるで悲鳴のような、痛々しい叫び声をあげ、地面に膝をつき苦しそうにもがきながら、 狼人間はルーピンの姿へと戻った。 見ていたも、苦しくなるぐらい、それは苦痛に満ちたものだった。 そのまま彼は、地面にうつぶせになって倒れた。 「ぁ…、リ、リーマス…」 力の抜けた体を、ふらふらになりながら立ち上がらせ、はルーピンのもとへ歩いた。 裸の背中にある生々しい傷から、血が流れている。 は咄嗟に応急措置をするため、空中から塗り薬と包帯を取り出した。 それは、ほとんど無意識の行動だった。 はあはあ、と肩で息をするルーピンは、彼女に止血され薬を塗られると、痛そうに顔を歪めた。 は自分のローブを脱いでルーピンの体にかけると、彼をゆっくりと抱き起こした。 そこで、ようやくルーピンは瞼を上げ、彼女と視線を合わせた。 ボロボロになって傷つきながらも、ルーピンを見下ろす彼女の瞳からは、涙がとめどなく溢れていた。 それを見たルーピンの第一声は、これまでになく、怒りを含んだものだった。 「君を殺すところだった!!」 やるせない表情で、ルーピンは叫んだ。その顔は、今にも泣き出しそうだった。 「ご、…ごめんっ、なさい…っ」 泣きじゃくりながら、ルーピンの腕を掴みながらは言った。 「あなたがっ…、もう、戻って、こなかったら、…どうしようかと思っ、て…」 「、……君はっ」 彼の言葉が途切れた。 名前を呼ばれ、彼の瞳を見た瞬間、がルーピンをその胸に抱きしめたからだ。 ぎゅっと、優しく包み込むように。その存在を、確かめるように。 「…よかった…」 涙声で、はそう呟いた。 ルーピンは、彼女の胸の鼓動と、その腕の温もりに包まれて、怒りも何もかも忘れて、 どうしようもなく、が愛しくなった。 安堵感が生まれて、彼の苦しみ、痛みが、全て溶かされて消えていくような気がした。 今まで、こんなふうに自分を抱きしめてくれる人はいなかった。 獣の姿から元の姿へ戻ったときの、とてつもない孤独感。寂しさ。 誰かに助けを求めたかった。どうしようもないと分かっていながら。 でも、誰にも救えないと、そう思っていたから、助けを求めることさえできなかった。 満月が訪れるたびに、苦痛を味わった。その度に、心まですり減らしてきたような気がしていた。 でも、今、やっと見つけた。 やっと、分かったんだ。 君だけなんだ。 私を救えたのは。 この、寂しさも苦しみも全て、君の優しさが包んで癒してくれる。 その瞬間、とても、幸せになれるんだ。 私には、君しかいない。 愛してるんだ、。 頬に、温かい感触が伝った。 初めて、彼が流した涙だった。 (2007.10.18) やっとこのシーンが書けました。 お気に召しましたらお願いします(*^-^*)→ web拍手 back / home / next |