この15年間、私はずっと、後悔していた。
年をとるごとに、それは日に日に強くなって私を苦しめる。


あの時、もしあの人の手をとっていれば、
全てが、違っていたのに―



でも幼い私には、何が正しいのか分からなくて、
誰を信じたらいいのか分からなくて、


手を差し伸べてくれたあの人も

そして自分自身でさえも


恐ろしくてしょうがなかった。



失ったものの代償は大きく
得たものの重さに耐えられなくなるとは知らずに、

私はその手を振り払ってしまった。


それが、正しい選択なのか、誤った選択なのか、
いまだに分からない。


全ては、そこから変わってしまった。






grace

1








賑やかな音が階下から漏れてくる。外は夜更けだというのに、その騒がしさは一向に治まりはしなかった。
毎日のように聞こえるそれに、は呆れたようにため息をつき、椅子から重い腰を持ち上げた。
扉を開けて、酒場へと足を踏み入れれば、酒場特有の匂いが鼻をつく。
それは決していい香ではなかったが、慣れたものだった。
鈍い足で階段を下りれば、カウンターにいる背の高いバーテンが彼女に気付いた。
何を言うでもなく、彼は散らかったグラスや瓶を片付け始めた。もう店じまいの時間だ。

「よう、ばあさん元気か?また今日も背を丸めて可愛らしいなぁ。」
柄の悪い常連客に話しかけられて、は彼をにらみつけた。赤い顔で酒臭い、どこにでもいるような男たちだ。
彼女ににらみつけられて、彼らはそれだけで面白そうに笑い出す。
「いつまでもいられちゃ迷惑なんだよ。とっとと帰りな」
彼らの前に置かれた、まだ空けていないグラスを掴むと、は見た目弱弱しいながらも、ちゃんとした足取りでカウンターへと向かった。
文句を言う客たちには構わずに。それはいつものことだった。

「にしても、ほんとあのばあさん危なっかしいな。あんな歳なのにマグルみたいに魔法も使わないし。」
「ハハ、ありゃあ絶対スクイブだぜ?気の毒だな。見たところ家族もいなさそうだし。」
「そうか?俺何度か見た事あるんだ。そうだな、息子っていうよりも孫ぐらいの年だったか…」


『五月蝿い連中』

ひそひそと自分を見て話す彼らを尻目に、は他のテーブルも片付け始めた。
店内には、ローブを着た魔法使いもいれば、どこから来たのか分からないような、怪しい連中もいる。
そこまで広くない店内は、賑やかな客もいる反面、奥まった部分もあり、どこかひっそりとした雰囲気も併せ持っていたからだ。
客が少しずつ出ていき、は最後に一番奥のテーブルを片付けようと足を運んだ。

その席には、一人の男がぐったりと寝入っていて、一向に動こうとする気配がなかった。
彼の前には少しだけ酒が残ったグラスがひとつ、置いてあるだけで。それも長い時間放置した状態だ。
グラスに残っているはずの汗も吹き飛んでいて、酒もまずそうな色をしていた。

「グラス一杯でこんだけ粘るとは、いい度胸だね」
はあからさまなため息をついたが、その男はまだ起きはしない。
彼は、みすぼらしいローブを着ていて、髪は白髪交じりだし、痩せた青白い顔には整っていない髭が生えているし。
見るからに金がなさそうな男だった。それに、この辺りではみかけない顔だ。

「…どうします?」
無口で無愛想なバーテンが、の側にやってきて、彼女と同じように眠っている男を見下ろした。
バーテンは、目の前の男を軽々と持ち上げられそうなぐらい、体の大きな男だった。

「もちろん、外に放り出して…ちょっとお待ち」
寝入っている男の顔を見ていたは、あることに気付いて眉をひそめた。
「いや、やっぱりよそう。一晩ぐらい泊めてやっても。どうせ宿をとる余裕もないだろう。
 外で野垂れ死にされちゃ縁起も悪いしね。」
「…今は夏ですが。」
「あたしがいいって言ってるんだから、さあ、あんたもそろそろあがっていいよ。」
少し不思議そうな顔をしているバーテンを小突くと、もまた片付けにとりかかった。



しばらくして客も引き、バーテンを帰らせると、店はがらんとして静けさが残った。
相変わらず寝息をたてたままの男を振り返ると、はまたため息をついた。
蝋燭を彼のいるテーブルの上に置くと、彼女は2階にある自室から持ってきたブランケットを、彼の体にそっとかけてあげた。
そのとき、ふと男が身じろぎをしたので、は驚いて身を引いた。

うっすらと、彼のまぶたが開かれて、の姿を捉えた。

「…ありがとう、マダム」

―それは、とても穏やかな笑顔だった。

彼はそれだけ呟くように言うと、またぐっすりと寝入ってしまった。
はしばらく呆然として、その彼を見つめていた。






世話の焼きすぎとも思ったが、翌朝、は簡単な食事を持って階下へと下りた。
案の定、昨日の男は日の差し込む店内で、椅子に横たわって眠ったままで。
は呆れて口角を上げた。

「ほらほら、いい加減起きたらどうだい?」

いい香りのする朝食をテーブルの上に乗せると、はその男を軽く叩いた。
彼は微かに呻いて、しばらくしてようやく身を起こした。

「朝食だよ」
がそう言うと、彼は少し困ったように笑って食事を見た。その笑った顔は、外見よりもずっと幼く見えた。
というよりも、本当は若いのに苦労をしているのか、老けて見えていたのだ。
「すみません、ご迷惑を…」
「まあ、よく言うよ。本当は世話になるつもりで昨日も眠ってたんだろ?」
「いいえ、そんなつもりは、」
「もういいから、冷めてしまうよ。」
「…ありがとうございます」
この酒場には似合わない礼儀正しさで、珍しいものを見るかのように、は彼を見ていた。

「…連中の仲間にいれてもらうつもりかい?」

彼女の一言に、食事をしていた彼は、はっとして顔を上げた。

「あんた、人狼だろ?」

しばらく驚いた顔をして彼女を見ていた彼は、少し顔を歪めて頷いた。
「…分かりますか?」
「見たところ傷だらけだし、一昨日は満月だったから、昨日も弱ってたんだろう?
 この町から少し離れたところに、奴らの住処があるしね。」

穏やかな印象とは打って変わって、彼の瞳が探るように自分に向けられた気がして、
は慌てて視線をそらした。それに、余計なことを言ったかもしれないと思って。

「まあ、どこへ行こうがあんたの勝手だけど。」
彼女はそっけなくそう言うと、カウンターへと向かった。




「美味しい食事と宿を、どうもありがとうございました。」
「いらないよ、そんなもの」

彼が去り際に、代金を渡そうとするものだから、は彼を見上げて不機嫌そうに言った。
それを聞いて、彼は困った顔をすると、代金をカウンターテーブルの上に置いた。

「ちょっと、あんた、」
ムッとしたに彼は優しく善良そうな顔をして微笑んだ。

「リーマスです。あなたの朝食、本当に美味しかったから。
 私はあなたのこと、なんてお呼びしたらいいですか?」
「…もう来て欲しくない客に、なんで教えなきゃいけないんだ?」
「さあ、どうでしょうね。店を選ぶ権利は客にあります。
 それに、恩人の名前ぐらい聞いてもいいでしょう。」

は一瞬躊躇した。でもここで言わないのも、怪しまれるだけだ。


「…。」



彼は一度彼女の名前を口にして、再び感謝の言葉を言うと、一度にっこり笑って店をあとにした。
ルーピンが出て行くまで、面白くなさそうな顔をしていたも、彼がいなくなると、ふっと息をついた。


「…珍しい客もいるものね…」



彼が出て行った扉を見つめる。

さきほどの優しい笑顔も、久しぶりに呼ばれた自分の名の響きも、何もかも新鮮で。
それは、しばらく彼女の頭から離れそうになかった。
















(2008.1.14)  またはじめちゃった新連載。マイペースにやっていきます。よろしくお願いします。


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